『那覇新都心--おもろまち」の歴史 八柳 久仁子
戦前、おもろまち1丁目のこのあたりは安里地区と呼ばれ、『那覇市史」によれば「八幡宮、神徳寺など、名所旧蹟の他安里小学校もあり、名実ともに真和志北部の中心的な場所だった。・・・かつては沖縄にも県営の鉄道があり、この地には軽便(ケイビン)鉄道嘉手納線の安里駅があり交通の拠点となっており、近くには牛乳屋、そば屋、理髪店、雑貨商なだが軒を並べ、街を形勢していた。崇元寺がこの部落に文化的風格を添えていた。」と記されています。
現在のおもろまち駅近くの小高い丘には白いタンク(安里配水地付近)が見られますが、第2次世界大戦当時、日本軍からは「すりばち丘」、米軍側からは「シュガーローフ」とよばれていました。この地においては、1945年5月12日から一週間にわたって、日米双方の軍によって1日に4度も頂上の争奪戦をするという激戦が展開されました。5月18日、米軍側は何とかこの地を制圧しましたが、この戦いで米軍側は、2660人余りの死傷者が出ました。あまりにも厳しく、あまりにも激しい戦いで1280人を超える米兵士が精神的な病に悩まされたとされています。日本側も軍人のみならず学徒隊、住民を含め、多くの死傷者を出しました。この戦いの後、米軍は日本軍司令部のある首里への攻勢を強め、司令部は本島南部に撤退を余儀なくされました。沖縄戦といえば、南部戦線ばかりが、とりあげられますが、「シュガーローフ」の戦いこそがまさに沖縄戦の、大きなターニングポイントだったと言えます。「シュガーローフ」を明け渡すこととなったために日本軍は本島南部に逃れ一般住民が悲惨な戦闘に否応なしに巻き込まれてあのような悲しい出来事が起きることになったのです。

この土地は、このような悲しく、辛い歴史のある場所でもあります。そのような歴史といわれのある、沖縄にとっても大事にしなければならないような場所なのです。
この地はまたかつて「慶良間チージ」と呼ばれ、慶良間の島々を一望する景勝地でもありました。
第二次世界大戦も終戦となり、この地に住んでいた人々は故郷を追われて、米軍の占領下収容所に移動させられたり各地を転々とすることを余儀なくされました。やっとのことで戻ってきた故郷もすっかり焼け野が原、しかし、住民たちは助け合い、支えあいながら少しずつ元の活気を取り戻していきました。ところが、昭和25年再び天久、上之屋一帯が立ち退き通告を受け、米軍による牧港地区と呼ばれる米軍住宅地区の建設が始まりました。昭和28年米国は「土地収用令」を公布、武装兵とブルドーザーでの実力行使で強制接収し、フェンスで囲ってしまいました。フェンスの外側では県民は貧しい生活をしていましたが、米軍は1181戸の住宅をはじめ、ゴルフ場、学校などが建設され豊かな米軍のための施設として使用されることとなりました。
長きにわたっての米軍支配の後、本土復帰・基地返還運動によって昭和47年5月15日に本土復帰が実現しましたが、牧港住宅地区は昭和62年になってやっと全面返還されることになりました。しかし、もともとの地権者である地主の方々がすぐに自分の土地に家をたてることは叶いませんでした。昭和60年7月の「那覇新都心地区開発整備構想」により、道路や公園の整備、公共施設用地の確保のために、民有地面積の約3割を先行取得する必要があり、減歩率は32%と設定されました。しかしこれには反対意見も多く平成元年、那覇新都心開発整備事業が始まるまで地主会、那覇市、沖縄県、地域振興整備公団が協議を重ね道路や学校、公共施設、公園などを整備するためにということで、那覇市は地主に対して30%の減歩を求め、さらに公共施設のための先行取得が難航していることから、地主からの一律買い上げを計画しました。先祖代々からの大事な土地をこれ以上なくしたくないという地主の不満に対し「ここには公共施設を、市役所を建てますから、なんとか市民みんなのために、協力して下さい。」としぶる地主を説得して20%の土地の先行取得を進めました。
沖縄県、那覇市、公団、地主会の4者で構成する「那覇新都心街つくり推進協議会」が中心となり地区計画の検討も進められました。土地利用計画図が作成され、学校、公園、博物館、美術館、市役所候補地、住宅地区、商業地区、道路の配置などが発表されましたが、決められた用途地域にあわせて、建物の高さ、道路からの壁面後退、垣、柵の構造制限など、細かく指定されました。
『那覇市新庁舎位置選定審議会』は平成5年に「新庁舎は新都心地区に建設することが適当である。」と答申しました。
平成10年3月31日には使用収益(土地をその用法に従って使用すること、またその土地から生ずる収益を得ること)が開始され、それに合わせて道路の共用も始まりました。戦後の強制接収から実に45年が経過していました。平成12年10月、ショッピングセンター「天久りうぼう楽市」が開店し住宅、アパート、マンション、飲食店、など、続々と建ち始めて、市街地を形成していったのでした。
そして、平成18年7月、翁長那覇市長は突然、市役所建設予定地だったおもろまち1丁目のこの土地を売却すると表明しました。
引用文献:那覇新都心地主会、2007年発行、『新都心物語』
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