![]() |
熊本市黒髪2-19-8 TEL 096-343-6935 FAX 096-335-7800 |
|||||
| 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28) | ||||||
| 室園教会 | 牧師 | 活動 | 女性 | 青年 | 中高生 | 子ども |
| 室園教会先頭ページ >牧師 >説教 | ||||||
説教
![]() |
室園教会の礼拝で語られた、西川晶子牧師の説教の要旨です。 どうぞ礼拝で、本物の説教をお聴きください。 |
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
大変よく知られているたとえ話です。語られつくした箇所ではあり、キリストとつながるということを考えさせられる箇所です。キリストにつながっていることで、わたしたちは豊かに実を結ぶことができる。つながる、という恵みが記されています。 しかし、私が高校生のころ、この箇所を最初に読んだときの印象は「何だか怖いな」でした。確かに、このようにも書いてある。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる」。「実を結ばない枝は、外に投げ捨てられて焼かれる」と。どうしてもこう考えます。わたしはどちらに入るのだろう」。自分は明らかに、投げ捨てられて焼かれる方に入るのではないだろうか、と。聖書では、神さまがどんなに収穫を望んでも実を結ばない神の民が、ぶどうの木に例えられている箇所が多くあります。実はとても緊張感のある箇所です。 しかしわたしたちはここで、実を結ぶことができない自分を嘆くのではなく、イエスさまが「実を結ぶ」こと以上に「つながる」ということを大切にされているということを、心に留めたいのです。そして、「わたしにとどまっていなさい。わたしもあなたにとどまっている」とイエス様は言われます。ぶどうの枝は、芽が出た初めのころはすぐに幹から折り取られてしまいそうなもろいものです。しかし1年、また1年と年を経ていくうちに、はじめは脆かったぶどうの枝は、いつの間にかぶどうの木と同化して、木の一部のようになります。それほど、木と枝とは密接に結びついていく。イエス様の方が、わたしたちと、固く結びついてくださっているのです。それは、「イエス様の十字架の死と、そこからの復活」という形で、わたしたちに示されました。わたしたちの罪のゆえにイエス様が十字架にかかられた日、イエス様とわたしたちの関係は切れてしまったように見えたけれども、そうではなかった。イエス様はそれでもなお、わたしたちと硬く結びついてくださるのだということを、神様は復活という形で、わたしたちに示してくださった。 わたしたちが望むことができるのは「イエス様、わたしを離さないでください、神さま、わたしを離さないでください」ということだけではないかと思います。すべての願いはそこに帰結するのではないかと思います。そのために、農夫である神様は、わたしたちの「手入れをなさる」。手入れをするとは、剪定をしたり、不要な部分を取り払ったりすることです。そしてそれは「わたしの話した言葉によって」なされることだ、と主は言われます(「手入れをする」というのは後に出てくる「清くする」と同じ言葉)イエス様のみ言葉によって、わたしたちは、ととのえられる。その言葉はときにわたしたちにとって、痛いこと、厳しいことがある。しかしそのことばによって、わたしたちは整えられる。それもまた、神様からのわたしたちへの愛のしるしです。 わたしたちはこれから、聖餐をいただきます。説教が「聞くみことば」であるのに対し、聖餐は「見えるみことば」であるといわれます。このパンとぶどう酒を通して、わたしたちはイエス様の恵みを受ける。その恵みは、わたしたちの中から生まれるのではありません、外からわたしたちの内側に入ってきて、わたしたちを新しくしてくださるのです。自分のうちには何も身を結べるようなものはないかもしれない、しかしイエス様のほうからわたしたちは新しい力を受けて、それによって満たされ、新しくされる。その恵みによって生かされるのだということを、この聖餐の中で、わたしたちは改めて思い起こしたいのです。 |
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 明治の作家、二葉亭四迷が、海外の文学作品を日本語に翻訳するとき、「アイラブユー」ということばをどう翻訳したらよいかわからず、二日二晩迷ったそうです。そして彼が選んだのは「あなたのためなら死んでもいいわ」という言葉でした。はからずもたいへんキリスト教的な翻訳でもあります。「あなたのためなら死んでもいいわ」と、わたしたちにイエス様の十字架が与えられた。 しかしわたしたちは、どこまでその愛に応えることができるでしょうか。「わたしのために死んでもいいと思ってくれるか?」とイエス様から尋ねられたとして、わたしたちはどう応えることができるでしょうか。 今日の福音書の日課の中で、イエス様がペトロに尋ねられます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。以前のペトロなら喜んで「はい、もちろんです!」と答えたかもしれません。ですが、ペトロはここでは、はっきりと言い切ることはできません。彼は「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という。弱気にも思える答えです。 しかもペトロはここで、イエスさまが尋ねられた「愛」に対してそれとは少しニュアンスの違う「愛」を用いて答えています。ギリシア語の愛にはいくつかの種類があり、最も至高とされているのがアガペーという無償の愛、次いでフィリアという友愛、そしてエロスと言う性愛。ここでイエスさまは、ペトロに「アガペー」の愛で問いかけておられます。「ペトロ、お前はわたしを、他の誰にも勝るアガペーの愛を持って愛しているか」 しかしペトロは、同じアガペーという言葉では答えられないのです。「主よ、わたしがあなたをフィリアの愛を持って愛していることはあなたがわたしよりもよく御存知のはずです」。 イエス様の十字架の前のペトロであれば、胸を張って答えたかもしれません、しかしペトロは、十字架の夜に知ってしまったのです。自分の中に確かにあると思っていたイエスへの愛が実はまったくなかったことを、イエスの前から逃げたあの夜に見せ付けられてしまったのです。復活の主と出会っても、イエスを裏切った記憶と痛みはペトロの中に色濃く残っています。だからこそペトロは、イエスが「アガペー」で問われるのに対して、「フィリア」の愛でしか答えることができないのです。2度目の問いかけも同じです。イエス様がアガペーで問われるのに対し、ペトロはフィリアでしか答えられません。 そしてそのペトロに、イエス様は三度目の問いかけをされます。しかしここでの問答は、前の2回とは異なっています。三度目に、イエス様の方が、その問いかけを新しいものにされたのです。「ヨハネの子シモン、あなたはフィリアの愛を持って、わたしを愛するか」。イエス様は三度目に、ペトロに合わせて「フィリア」の愛をもって、問いかけられたのです。 イエス様はここで、三度正直に自分自身を告白したペトロを、イエス様にすべてをゆだねるしかなくなったペトロを、同じところに御自分が立つことによって、受け入れられたのです。フィリアは、確かにアガペーに比べたらやや劣るものとみなされることが多いのですが、しかし美しい友情、親密な交わりを示す言葉でもあります。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは次のように書いています。「人間、つまり弱い者に対する唯一の生産的な関係は、愛、すなわち交わりを持とうとする意思である。神ご自身は、人間を軽蔑されず、人間のために人間となられたのである」(E・ベートゲ編「ボンヘッファー獄中書簡『抵抗と信従』」増補新版、新教出版社p11)。 イエス様は、弱いペトロを軽蔑されません。弱いわたしたちを軽蔑されません。わたしたちを軽蔑されることなく、それどころかそのわたしたちと親しい交わりと持ちたいと思われたからこそ、イエスさまは人となり、徹底的に人としてわたしたちの間を歩まれたのです。そのイエス様はペトロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と、大切な役目を与えられます。ペトロはイエス様の答えに悲しみました。しかし、その痛みごと、イエス様はペトロを改めて弟子たちの代表、子羊を養う役目へと任命されるのです。わたしたちは確かに弱い、しかしわたしたちはすべてをその方にお預けしていいのです。キリストはわたしたちを、愛をもって用いてくださる。そのイエス様にわたしたちをまるごとお預けして、神様の愛を表していくものでありたいと願います。 |
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 一晩中、夜通し漁をしていたけれども、まったく魚が取れない。そのような状況で、弟子たちは朝を迎えています。弟子たちは漁師に戻っています。ここでこの弟子たちは、すぐに福音宣教の働きについたわけではなく、イエス様と出会う前の生活に戻っていることになる。少し不恩義です。 しかし、教会の磨で考えると、この弟子たちの姿は、ちょうど今の、復活から少し時間がたったわたしたちをあらわしています。復活の喜びがひと段落して、お集り騒ぎが終わり、「さて」と改めて腰をすえて、もとの生活に戻っていく。このような時期と言えるでしょう。 弟子たちはこの朝、疲れ果てています。夜中の仕事はただでさえ疲れがたまります。それでも成果があればいいけど、一晩中漁をしても、何も取れなかった。空っぽの網を手にして、弟子たちは疲れ果てています。わたしたちの1週間はどうだったでしょうか。十分な成果が得られて、満足な一週間だったのなら、それでよい。しかし、一晩中、一週間のあいだ漁をしても、空っぽの手で帰ってこなければいけないときがある。「子たちよ、何か食べるものはあるか」、おい、何かいいのがとれたか。漁の成果はどうだ。岸の方からそうイエス様に尋ねられて(弟子たちはこのときまだイエス様とはわかっていませんでしたが)、「何もありません」こう答えなければならない自分がいます。成果が何も得られなかった、そんな自分がいやになります。 そこに、岸の方から声がかかる。「舟の右側に網を下ろしてみたらどうだ」。さんざん夜通し漁をした後です。もうあきらめようとしているところです。やれやれ、何を無駄なことをと思った弟子もいたでしょうが、そんなに言うならだめもとで最後の一回、というくらいの気持ちだったかもしれません。とにかく彼らはもう一度、網を下ろしてみます。 しかし、その網は引き上げることができないほどの魚で満たされました!それまで空っぽだった網が、その人のことばによって、満たされた。そこで、ひとりの弟子が気づくのです。イエスさまだ!と。みことばによって、何もないように見えても、みことばに従って網を打つことでその網をいっぱいにしてくださる方。それはイエス様以外にないと、このとき弟子は気づくのです。 そして弟子たちは取れた魚を大事に抱えて、イエス様が待っておられる岸へと帰っていきます。そこには、朝の食事の用意がなされている。イエス様は、帰ってくるわたしたちのために、自ら炭火をおこし、パンと魚を網に乗せて、わたしたちを待っていてくださいます。取れた魚を喜んで受け取って、焼き魚に調理して、わたしたちに手渡してくださいます。それが、この礼拝(サービス)です。わたしたちは一週間のあいだ漁をして、そして毎日曜日ごとに、このイエス様が待っている岸辺に、帰ってくる。そしてもてなしを受けて、新しい自分になって、またわたしたちの生活の場である潮へと帰っていくのです。 そこは、これまでと同じように見える湖です。しかし、弟子たちはもう知っています。「弟子たちはだれもあなたが問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」この方はわたしたちの主人である方だ。十字架という究極の死から復活してわたしたちと出会い、真心でもてなして下さる方、この方こそわたしのいのちの主人だ。わたしを新しくしてくださる方だ! これからわたしたちもまた、自分の湖、自分の生活の場に出て行きます。またおなじ一週間が始まる。一見、それまでとなんら変わりない日常が待っているかのように思います。 しかし、その湖にもイエスのみ言葉は届きます。弟子たちが最初、イエスを見てもイエスだと認めることができなかったように、疲れの中で、イエス様に対して目がふさがれてしまうかもしれません。しかし、そこにも復活の主のことばは確かにとどきます。わたしたちがイエスを主であると認めることができる前から、イエス様はわたしたちのことを岸から見つめ、みことばによって、わたしたちを助けてくださる。そして、わたしたちが帰ってくるときのために、炭火をおこして待っていてくださっている。この方がわたしたちの主人である。そのことに信頼して、わたしたちはまた、湖に網を下ろすものでありたいのです。 |
| 日本聖書協会 | 聖書日課 | eBible Japan(日本語聖書検索) |
| 日本キリスト教書販売 | AVACO キリスト教視聴覚センター | 英語で聖書を読もう! |
| ゴスペルジャパン | PBA 太平洋放送協会 | BBN 聖書放送 |
| 日本国際ギデオン協会 | キリスト教メンタルケア・センター(CMCC) | いのちのことば社 |